智恵子の紙絵
高村智恵子さんの紙絵が大好きなので、今日はたくさん紹介します。
もちろん高名な詩集「智恵子抄」の智恵子本人である。
高村智恵子27歳→
高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年5月20日 - 1938年10月5日、旧姓長沼、千恵子は誤表記)は、日本の洋画家である。彫刻家の高村光太郎は夫である。彼女の死後、夫が出版した詩集『智恵子抄』は有名である。ウィキ
智恵子は大変利発な少女であったという。
手先も器用で、友達にも優しく気品があったそうだ。
あの時代に、女子大で絵画を勉強したというくらいだから
それなりに家も裕福であったのだろう。
平塚雷鳥等の提起した女子思想運動にも加わり、智恵子も「新しき女性」と呼ばれている。
智恵子の油絵↓
智恵子が書いた「青鞜」表紙→
光太郎が智恵子に出会ったとき、智恵子には婚約者が
いたので、いわば略奪したともいえる。当時の新聞
に、それをとがめる記事が載っていたりもした。
智恵子はもともとからだが弱く、
光太郎と2人でよく湯治にでかけている。
また、一年のうち何ヶ月かは郷里に帰って療養している。
そして、智恵子は夫の芸術家という職業の不安定さから来る貧困、実家の家業の傾きにも直面してゆく。
智恵子に最初の精神異常の兆候が現れたのは46歳の頃であった。
智恵子の発病の原因は誰もはっきりとはわからないであろう。
しばしば、芸術家同士のエゴのぶつかり合いによる抑圧も指摘されるが、結婚してからも智恵子は油絵を習いに行ったり、自宅にアトリエを持ったりしているので、制作する環境を光太郎は尊重していたように見える。
智恵子の紙絵はすべて最晩年の2年ほどで制作されていて千数百枚ほどもある。
療養所の智恵子は、最初は何でもそこらにある紙切れを手あたり次第切り抜いていたが、だんだんと色彩への欲求が強まり、見舞いに来る光太郎に色紙をたのんで持ってきてもらうようになる。
はさみはマニキュアに使う小さな先のとがったはさみであった。
そのはさみを手に、しばらく紙を見つめてから、あとはすらすらと切り抜いてゆくのだという。
そして仕上がった作品は,医師にも手伝いの女性にも絶対見せず、光太郎が来たときにだけ示された。
画家の深沢紅子は、その写実の感覚的なデッサンの鋭さと、一枚ごとに新鮮な色感の美を指摘し
「かくまで森羅万象を美しく感じ、それをかくまでに自由奔放に表現できた人がこの世にいたのかという事実をいまさら驚かずにはいられない・・・・
マチス先生もこの絵を見たらあのひげずらの美しい大きな目を見張って、ただ簡単するだろうと思うのである」
と、書いている。