「ゆるす」ということ~松本サリン事件3~

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著書
命あるかぎり
松本サリン事件を超えて
出版:第三文明社
著:河野義行

私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。(本文より)

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松本サリン事件の続きの記事です。
記事のアップが遅くなりましたが、松本サリン事件で冤罪に巻き込まれた河野義行さんについて、一番感銘を受けたことがあります。
それは、「ゆるす」ということです。


自分がいわれのない被害を受けた場合、たいていは怒りに燃え、どうしたら相手に復讐できるか考えると思います。相手が憎くて、そのことで頭がいっぱいになっったりします。
でも、そういった状況はつらくて、苦しくてしょうがないものです。
苦しいと余計に、この苦しさを 原因となった相手にも味わわせてやりたくてしょうがなくなります。


河野義行さんは、奥様がサリン禍で寝たきりになった上に、いわれのない罪まで着せられました。
しかし、

「麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどと
いう無駄なエネルギーを使って、限りある自分の人生を無意味にしたくない。そんなことで残りの人生
つまらないものにしたくない。」

と言い,刑期を終えて出所した元オウムの信者が自分の家に出入りするのを許し、あまつさえ、一緒に風呂に入ったりと、まるで家族のような付き合いをしています。

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私は、「ゆるし」ということについて、今までほとんどまったくといっていいほど、考えたことがありませんでした。ひどい目にあっても、許したことはなくて、時間の経過で忘れる事しかなかったような気がします。

しかし、「ゆるす」という選択肢があるのだと、はっとしました。



「ゆるす」とことができれば、自分自身がらくになるのです。  ゆるすことによって自分の心が
 癒やされ、解放される(資料より、朝日対談)のです。

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アーミッシュと呼ばれる人たちがいます。
彼らは、自動車や電気を拒み、非暴力を貫く米国のキリスト教の一派です。
06年秋、彼らの学校を男が襲い、女児5人を射殺しました。惨劇の直後、彼らは自殺
した犯人の家族を訪ね、「ゆるし」を伝えています。



河野さんやアーミッシュのひとたちは、自分たちの大切な家族がひどいめあってつらいはずはなく、それでも「ゆるす」のです。それは、つらい葛藤の果ての選択でしょう。

私も普通の日本人として生まれ、宗教的なゆるしとは無縁に生きてきました。
しかし今、河野さんやアーミッシュの「ゆるし」を知り、今までの自分がとても小さくて醜いものに思えて仕方ありません。かといって、自分がそんな境地にいたるとはとても思えませんが・・・。

現代の日本では、許せないという怒りのエネルギーが増幅され、簡単に無差別殺人にまでいたることを考えると、今、一人ひとりが「ゆるし」について、考えてみてもいいのではと思います。

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資料として、ノンフィクション作家、柳田邦男さんと、米国の研究者、ドナルド・クレイビルさんが、アーミッシュの「ゆるし」について語った朝日新聞の記事を、「犯罪とゆるし~アーミッシュ~」と題してアップしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yosinaga23jp/20573828.html